SF的表現について(筒井康隆と熊谷守一)
筒井康隆の作品に教えてもらった事は非常に多い。
例えば、表現の幅。
「歩く」という動作を描写するとき、どのような表現が考えられるか。
進む、ぶらつく、さんぽする、千鳥足で、
などなど、まぁ色々な表現がある。情緒的だったり、嫌にねばっこかったり、色々とあるのだが。
だが、まさか「歩く」という動作それだけで1篇の短編を書いてしまうとは思わないだろう。
筒井康隆はそれをやった。
「歩くとき」という短編がそれである。
まぁ、これ、とにかく凄い。ちょっと冒頭を抜き出してみる。
歩くとき、歩こうとする意志は自らをある特定の場所へ移動させたいという意思に反する為、これを肉体的負担と感じることが多い。逆に、歩きたいという意志のみよって歩くときは、目的地たる特定の場所を持たぬ為、これを故意に捏造し精神的負担を軽減させる。歩行に伴う、このような二律背反によって、歩くという行為の遂行には複雑な肉体的、精神的作業が必要である。
歩行は大多数の人間が足を用いて行うが、左右二脚の足のどちらを最初前に出すかは各個人の任意となる。血液の流れが速くなり、神経が刺激され、大脳新皮質は愛欲の対象をさまざまに思い浮かべる。早く来て。ぼくを助けて。ママ。ママ。
てな具合で、ひたすら歩く描写が続く。これ、まだまだ続く。文庫本、17ページずっと続く。
筋肉の動きを丹念に追い、しかも妄想的である。
マジで変態。そして天才。
どうやったらこんな変態的視点を得られるのか。
ごく当たり前の世界がこの1篇によって一変する。
きっと、芸術家という誇り高きキチガイ達は時間を自由に扱えるんだろう。彼らはSF的時間に生きている。
熊谷守一にこんな絵がある。
なんだこれ。ミスタードーナツ?
ちがう。
画題は『雨滴』。雨のしずくだなんて、誰が思うか。
言われるまで、「んなわけねー」なのに、言われてみると「なるほど」である。
でも、普通は気づかない。
この作品はかつて美の巨人たちで取り上げられた。
たしか、そのときは「高速カメラ?」みたいので雨を高速度撮影、超スローで再生すると、この絵とそっくりになる!
みたいな取り上げ方をしていたはず。
てことはなにか?
熊谷守一は超スローの世界を見れたってことか。
なにその超能力。なのその素敵能力。
さすがは超俗の人。
あいつらは時間を操る能力者にちがいない。
ちなみに、フローズン・タイムという熊谷守一的、素敵SF映画があるのでどうぞ。
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エロにしてエロにあらず。
カップルで見ると、きっと楽しい。