ひきこもり文化論

ひきこもり文化論

ひきこもり文化論

 面白いとは思うし、良いなと思う場面もある。



 例えば、筆者が大々的に「ひきこもり」を宣伝したことで、「あぁ、俺はひきこもりってやつだったのかー。俺以外にも結構な数の仲間がいるのかー」ってなってある程度安心する人もいたようだし。

 
 擬似通貨(地域通貨)を利用することによる、コミュニケーションの促進とか、色々考えてるのも興味深い。



 でも、ひきこもりに対する考えがちょっと偏っているようにも感じた。



 筆者は、客観的にみたら低学歴、低収入で、「負け組」なのに、学校教育の場で「偏差値で人の価値は決まりません」と教えられてるから、精神的に去勢されることがなくなった。

 また、核家族化による母子癒着も精神的去勢を遠ざける。

 結果として、「中途半端なプライドだけが残り、でも現実を認識したくないので、家にひきこもって時間を止める」と主張する。
 


 でも、これ、どうなんだ。



 

 大体、精神科医という高学歴で、社会的にかなり恵まれている、俗にいう「勝ち組」に属する著者が、「偏差値」を基準に出すと、なんかいやーな感じだし。

 それに、必ずしも学歴うんぬんとか、偏差値うんぬんとか、そういうもんでもなかろうて。

 
 思春期のプライドって偏差値だけじゃなくて、異星にモテるとか、友達が多いとか、そういう、色んなもんでできてるように思うんだけどもなぁ。
 
 



 あと、「ラカン的に言うと〜」という記述が多すぎる。精神科医か、パリ・フロイト派に傾倒したことのある人でもなければ「ラカンって誰よ?」ってなると思うんだが。


 ところどころ、難しいよね。

 誰にむけて書いた本なのだろう。



 著者がいろんな人とひきこもりについて語らった対談集があるらしいので、そっち読めば少しは意見の偏りも少なくなるし、難しくもなくなるんだろうか……。


【ひきこもり】【斎藤環】【ジャック・ラカン】【地域通貨とコミュニケーション】